人は死んだらどうなるか

◆人生、悩みが尽きない

人は死んだらどうなるのか。これは誰もが一度は考える問題ではないでしょうか。

小さい子どもはこのテーマについて考え込むこともあると思います。

私も幼いころ、「ママが死んだらどうしよう」と大泣きしたものです。

大人になるとそんなことはほとんどなくなりますね。

目の前の仕事や家計のこと、人間関係の方が忙しくて、そんなこと考える暇はない。

かくいう私も、年齢的にも周りが結婚しだし、将来どうしようとか、貯金がどうたらとか、頭を悩ませています。

でもみんな必死で悩むのは、それぞれ人生と向き合って、本気で生きているからだと思います。

明日は少しでも良い生活をしたい、いつかはこんなふうになりたい。

それぞれ夢を抱いて、今日も居たくもない場所で、必死に頑張っている人がほとんどではないでしょうか。

なかには、夢破れて、希望もなくなって、自ら運命を絶ってしまう人もいる。

それは本当に悲しいことだけれど、本気で人生に向き合って、本気で人生を考えた先にあるひとつの結論だと思います。

人生うまく行かなかったから、リセットした方がいい。

もし人が死んで、消えてなくなるのなら、その決断は簡単に否定できるものではない。

聖書が教える死とは

しかし、聖書はそうは語りません。

聖書が語る「死」とは、トンネルです。

この世の人生とあの世の人生を結ぶ通過点、 それが「死」です。

しかしそのトンネルの先には、この世のからだは持って行くことはできない。

まさに、「土から生まれて土に帰る」ということです。

トンネル通過後には、「新しいからだ」が与えられる。シンプルな話です。

そのからだは今までと違い、朽ちることも老いることもなく、永遠に失うことがないというのです。

しかし、そのからだを与えてもらうためには、たったひとつ条件がある 

その条件とは、

「イエス・キリストが、あなたの罪(つみ)のために犠牲になった」

ということを信じ、受け入れることです。

というのが分厚い聖書がたった一つ言いたいことです。

ここでいう「罪」とは決して、わたしたちが悪事を働いているということではありません。

むしろ、ほとんどの人は善良で働き者で、社会に貢献して生きています。

この「罪」の語源は、ギリシャ語のハマルティア(意味:マトをはずす)から来ています。

つまり、わたしたちは誰に造られたのかを忘れ、自力で何とか生きようとしている

これが、罪(つみ)=的外れ(まとはずれ) の意味です。

言い換えるのならば、

自力で何とかしようとしていたことを止め、マトを定め直して、見えない存在に心を向け直す

と言ってもいいかもしれません。

これは日本の死生観ともとても近いものです。

  • 自分を作ってくれた祖先に感謝する。
  • 自然のありさまに見えないカミの存在を感じ、感謝する

まさに西行法師が伊勢神宮を見て言ったとされる

「何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

いったいどんな方がいらっしゃるかはわからないけれど、かたじけなさにただ涙がでます

と同じことです。

◆思い立ったが吉日

現代社会は本当にストレスが多く、忙しい毎日ですよね。

漢字が表すように、

「忙」しいと「心を亡」くしてしまいます。

ですから、日々の生活の中で少しでも

見えない存在に心を向け、

落ち着く瞬間を持てればいいですよね。

気になったら聖書も読んでみてください。

それでは。

※本ブログに掲載されている聖書の引用は、King James Version(KJV, 1611)をもとに筆者が適宜翻訳・意訳したものです。原文はパブリックドメインです。

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