◆本日の聖書箇所◆
わたしたちはみな眠るわけではありません。
しかし、一瞬のうち、瞬く間に、終わりのラッパとともに、わたしたちはみな変えられるのです。
そのラッパが響くと、死んだものは朽ちないものによみがえり、わたしたちは変えられるのです。
1 コリント人への手紙 15:51-52
◆人生、悩みが尽きない
人は死んだらどうなるのか。これは誰もが一度は考える問題ではないでしょうか。
小さい子どもはこのテーマについて考え込むこともあると思います。
私も幼いころ、「ママが死んだらどうしよう」と大泣きしたものです。
大人になるとそんなことはほとんどなくなりますね。
目の前の仕事や家計のこと、人間関係の方が忙しくて、そんなこと考える暇はない。
かくいう私も、年齢的にも周りが結婚しだし、将来どうしようとか、貯金がどうたらとか、頭を悩ませています。
でもみんな必死で悩むのは、それぞれ人生と向き合って、本気で生きているからだと思います。
明日は少しでも良い生活をしたい、いつかはこんなふうになりたい。
それぞれ夢を抱いて、今日も居たくもない場所で、必死に頑張っている人がほとんどではないでしょうか。
なかには、夢破れて、希望もなくなって、自ら運命を絶ってしまう人もいる。
それは本当に悲しいことだけれど、本気で人生に向き合って、本気で人生を考えた先にあるひとつの結論だと思います。
人生うまく行かなかったから、リセットした方がいい。
もし人が死んで、消えてなくなるのなら、その決断は簡単に否定できるものではない。
◆聖書が教える死とは
しかし、聖書はそうは語りません。
聖書が語る「死」とは、トンネルです。
この世の人生とあの世の人生を結ぶ通過点、 それが「死」です。
しかしそのトンネルの先には、この世のからだは持って行くことはできない。
まさに、「土から生まれて土に帰る」ということです。
トンネル通過後には、「新しいからだ」が与えられる。シンプルな話です。
そのからだは今までと違い、朽ちることも老いることもなく、永遠に失うことがないというのです。
しかし、そのからだを与えてもらうためには、たったひとつ条件がある
その条件とは、
「イエス・キリストが、あなたの罪(つみ)のために犠牲になった」
ということを信じ、受け入れることです。
というのが分厚い聖書がたった一つ言いたいことです。
ここでいう「罪」とは決して、わたしたちが悪事を働いているということではありません。
むしろ、ほとんどの人は善良で働き者で、社会に貢献して生きています。
この「罪」の語源は、ギリシャ語のハマルティア(意味:マトをはずす)から来ています。
つまり、わたしたちは誰に造られたのかを忘れ、自力で何とか生きようとしている
これが、罪(つみ)=的外れ(まとはずれ) の意味です。
言い換えるのならば、
自力で何とかしようとしていたことを止め、マトを定め直して、見えない存在に心を向け直す
と言ってもいいかもしれません。
これは日本の死生観ともとても近いものです。
- 自分を作ってくれた祖先に感謝する。
- 自然のありさまに見えないカミの存在を感じ、感謝する
まさに西行法師が伊勢神宮を見て言ったとされる
「何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
いったいどんな方がいらっしゃるかはわからないけれど、かたじけなさにただ涙がでます
と同じことです。
◆思い立ったが吉日
現代社会は本当にストレスが多く、忙しい毎日ですよね。
漢字が表すように、
「忙」しいと「心を亡」くしてしまいます。
ですから、日々の生活の中で少しでも
見えない存在に心を向け、
落ち着く瞬間を持てればいいですよね。
気になったら聖書も読んでみてください。
それでは。
※本ブログに掲載されている聖書の引用は、King James Version(KJV, 1611)をもとに筆者が適宜翻訳・意訳したものです。原文はパブリックドメインです。