死んだ者は、解放されて義となっているのです。
私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる。
ローマ人への手紙6:7-8
YouTubeを見ていたら、
余命宣告をされた方の動画が流れてきた。
ふと見てみると、
もっと色々なことがしたかった
こんな運命じゃなければよかったのに
と涙ながらに話していた。
見ていてとても胸が詰まった。
実は私も、
小学生の時にがんを発症した経験がある。
抗がん剤治療も受けて、
一時的に頭髪もすべて無くなった。
自分は恵まれて完治することができたが、
同じ病室でともに治療を頑張った友だちには、
亡くなった人もいる。
もうずっと昔のことだからか
自分も同じ立場だったのに、そのことを忘れてしまっていた
と深く反省してしまった。
生きていることはあたりまえではない。
最も深く感謝するべきものなのだと
今さらながら思い知らされる。
しかし、当時といまで
大きく認識が違うのは
「死」
に対する考え方だ。
「死」はすべての終わりだと思っていた。
死んだら何もかもなくなって、
人生で楽しいこともできずに、
終わっていくのだと
思っていた。
しかし、実際には
「死」はトンネルである。
今生きている人生と、のちにくる人生
それを繋ぐのが「死」というトンネルなのだ。
人は死んで、土にかえる。
そして、その魂は
のちの世で、永遠に生きる者として
繋がっていくのだ。
だから、すでに亡くなったボクの友だちも
どこかで生きているし、
いずれは自分も同じところへ行くことになる。
遅かれ早かれ、そうなるのだ
残された者にとっては
想像を絶するくらい悲しいことだけど、
「死」はむしろ
新たな人生のはじまり
なのだ。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
マタイの福音書11:28

