今日の聖句:マタイの福音書 16:25
ギリシア語原文
ὃς γὰρ ἂν θέλῃ τὴν ψυχὴν αὐτοῦ σῶσαι, ἀπολέσει αὐτήν·
ὃς δ’ ἂν ἀπολέσῃ τὴν ψυχὴν αὐτοῦ ἕνεκεν ἐμοῦ, εὑρήσει αὐτήν.逐語訳
なぜなら、誰であれ、もし自分の魂(命)を救おうと望むなら、それを失うだろう。
しかし、誰であれ、もし私のゆえに自分の魂(命)を失うなら、それを見出すだろう。
原語から読み解く
ギリシア語原文では、命(魂)を ψυχή(プシュケー) と呼んでいます。
これは単なる「心」や「死後の魂」ではなく、
「地上で生きている自己全体」を指します。
- 自己中心の生き方: 自分の人生の手綱を自分で握り、自分を守ろうと必死になる生き方。
- キリスト中心の生き方: 「私のゆえに(ἕνεκεν ἐμοῦ)」、その手を離してキリストに委ねる生き方。
解釈ポイント(キリスト中心)
この言葉は、単なる「自己犠牲のすすめ」ではありません。
イエスはここで、ご自身と結びついた生き方と、そうでない生き方の決定的な差を語っています。
まず注目すべきは、「私のゆえに(ἕνεκεν ἐμοῦ)」という一句です。
魂(ψυχή)を失うこと自体に価値があるのではありません。
キリストのために失うことに意味があります。
ここで示されている逆説はこうです。
自分を守るためにキリストを避ける者は、最終的に自分を失う。
キリストを選ぶために自分を手放す者は、最終的に自分を得る。
つまり中心は「自己」ではなく、キリストご自身です。
さらに深く見ると、この言葉はイエス自身の歩みを先取りしています。
イエスはまさに「自分の命を失い」、十字架にかかられました。
しかし父なる神は、そのイエスを復活させ、イエスは再び「命を得た」のです。
弟子に求められているのは、
キリストが歩まれた道に連なることです。
古い自己はキリストとともに死に、
新しい命はキリストのうちに与えられる。
この聖句は、
「どうすればより良い人生を送れるか(How to)」ではなく、
「誰と共に生きるのか(With whom)」を問いかけています。
訳文比較
新改訳2017:
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者はそれを得るのです。新共同訳:
自分の命を救おうとする者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。回復訳:
自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、
わたしのために自分の魂の命を失う者はそれを見いだす。
原語の ψυχή は「魂」とも訳せますが、
この文脈では
生きている自己全体、すなわち「命」を指しています。
「魂を救う」と訳すと内面的・抽象的に聞こえますが、
原文はむしろ、自己保存か、キリスト選択かという具体的で切実な対立を表しています。
黙想
私は「自分を守るためにキリストを脇に置く生き方」を選んでいないだろうか。
それとも「キリストのために自分を差し出す生き方」を選んでいるだろうか。
主のもとで失われるものは、主のもとで必ず見出されます。
